振り返らずとも

懐かしい声に思わず振り返ると、そこにはクマの人形が沈みゆく夕日を背に立っていた。間違いない。私の初めてのクリスマスを迎えた時に、家にやってきたクマの人形だった。左目のボタンが取れかけて、縫い目のほつれた右足にパッチがしてある、あの大きなクマの人形だった。ボタンでできた両目が、私を優しく見つめる。
いろいろな思い出が浮かび上がる。旅行に行く時も、大荷物になるにもかかわらず無理やり持って行ったこと。ふかふかのお腹に体を預けて昼寝をしたこと。思い出せる記憶のほとんどに、そのクマはいて、ずっと私と一緒だった。今は確か、実家の倉庫に置いてきていたはずだけれど。
こっちへおいでよ。クマはそう呼びかけた。私も駆け寄ろうとした。でも、どんなに力を入れても、なぜか私の足は動こうとはしなかった。つまづいて、両手に抱えた荷物を落としそうになる私に、クマは優しく語りかける。こっちへおいでよ、また、楽しかったあの頃に戻ろうよ。そうして、ぼくとずっとずっと遊ぼう。
その言葉で、私は至極当然の、そして悲しい真実を知る。いや、そんなことは最初から分かっていたことなんだ。彼がいくら私を呼んでも、私がどんなに望んでも、僕らはあの頃には戻れないのだ。そして家では、妻とわが子が、父親になった私の帰りを待っているのだ。
ごめんよ、僕を待っている人がいるんだ。私はそう絞り出すように言う。それを聞いたクマは、ほんの一瞬だけ悲しそうな顔をした。その後、すぐにパッと明るい顔をして、いいんだ、君が幸せなら、僕はそれでいいんだ。そう言った。
私は前を向くと、もう後ろを振り返る事なく、家へと真っすぐ歩きだした。生まれたばかりのわが子にプレゼントする、大きなクマの人形が入った箱を抱えて。