人格や権利の所在
例えば、量子レベルで正確に物体の構造をコピーすることができる機械ができたとする。人間の脳をスキャンして、炭素繊維で構造を置き換えて、脳を機械化することに成功したとする。そこから機械の体へ出力するためのインターフェースや、学習機能を持たせるための最適化マネージャも開発したとする。
こうしてできたアンドロイドは、人的資源として売るのが正しいか、それとも、物体(商品)として販売するのが正しいのか。前提として、脳部分にはオリジナルがいると考えることにする。それと、高度化された機械の人権とかそういうベタなことはあえて考えるのは避けてみる。ここでは、そんなことより、オリジナルの気持ちというのを考えたい。
アニメという物がある。キャラの声には、声優という名のオリジナルが存在している、けど、そのアニメキャラに人権が存在するかと言われると、そうではない、まあ、アニメという媒体自体が、原作者やデザインなど、いろいろな人がからんでいるのでなんとも言えないが、とにかく二次元の人には、人権が無いようである。
じゃあ、有名なタレントの声入りの目覚まし時計(そんなのがあるかは別問題)を考える。確かに声という情報を含んだ物体だが、この時計君に人権があるかというと、そうではない。あるのは、オリジナルの肖像権くらいだ。同じように、商品販促用なんかによくある人間の等身大ポップにも、中に空気が入ってる赤い帽子のイタリア人配管工のバルーンにも、それ自体への人権はない。あるのは著作者やオリジナルに対する権利だ。
じゃあ、アンドロイドも、とりあえずオリジナルの権利は認めて、モノとして売ろうとすると、そこにははっきりとした抵抗感がある。前に挙げたいくつかの例に対して、何か違いを感じるとすれば、それこそが「人格」の存在なのではないだろうか。オリジナルと同じ構造をしている以上、それはオリジナル自身であり、アンドロイドに人格や人権を認めないのであれば、それはオリジナルを踏みにじる行為であるのだ、ということである。こういうのが実際に世間に出回り始めると、あやしい目的外使用をする奴は絶対に居そうだが、そういうことをされてしまったオリジナルの気持ちは、単なるえっちいアニメやゲームの主人公の声をやっている声優さんの気持ちとは明らかに違うような気がするから、この考え方は非常に自然であると、個人的には思う。