日記+α

ブログの存在する意味を考えた時、それは必ずしも「公開された日記」という物にはならないことがわかる。本来日記とは、筆者の身の回りに起こった出来事を書き記すだけで、それはほとんどの場合、公開する事によるメリットも無ければ、それを閲覧する価値もない。ということは、ブログを書くことの意味は、日記を書くこと以外に、なにか別の要素を持っているということになる。(もちろん、ただの日記になってしまっているブログがあるのは分かっているし、それを一概に無価値であると言っている訳ではない)
日記とブログとの最も異なる点は、日記が非常にプライベートな物である事に対して、ブログが開かれている点である。それも、ユーザーが単に記事を閲覧するだけでなく、コメントという形で、そこに情報を付加したり補完したりもできる。ふつうのサイトやWikiなんかは、そこにパブリックな側面しかないのだが、ブログは公開されていながら、そこにプライベートな面も存在するという、不思議なものである。
こういう特徴は、長所ともなるし短所ともなり得る。日本以外、特に欧米のブログは、出来事に付け加え、それに関する自分の考えをはっきりと記述している事が多い。見る方も見る方で、その考えにたいする自分の反論や補足などをしっかりとコメントしてくるので、非常に活発な議論の場となっている。良いブログの活用のしかたである。
ところが、日本において、ブログにそういう思想などを書いて見ると、たちまち罵倒や煽りとなり、ついには炎上(これが日本独特の表現である事にも注意したい)という状態になる。また、この炎上という現象自体が「みんなで叩けば怖くない」という陰湿さを象徴するようで、集団いじめのような理不尽さを感じる。
この「法律無き言論規制」のためなのか、日本ではブログにはっきりと自分の考えを記述する事が、それ程多くないように感じるし、コメントを禁止するという、一見妙なことをするブログも多い。
自分の考えが能動的に、自由に書ける場で、そういう圧力がかかり、議論にも発展しないから、欧米ほどインターネットが政治や世論に影響を与えてもいない。それは非常にもったいないことのように思える。せっかく第二の口があるのに、叫ぶのを禁じられているなんて。