リア充であるということ

リア充というのは、現実生活が「充実」していることで、主にネットワーク上でマイナスイメージとして使われることが多い単語である。私は当初、この言葉にプラスのイメージを持っていた。ところが最近、私はなぜ「リア充」という言葉が、ややマイナスのイメージを持つかが分かった。
充実というものが、費やした時間より大きな成果や達成感を得た時に感じる物であるとすれば、二通りの充実がある。ひとつは、時間という資源の大切さが分からない、もしくは価値を見いだしていない為に、何をやっても「充実」していると感じることで、もう一つは、時間の大切さを知った上で、時間以上の何かを得た時に感じる「充実」である。時間を無駄に浪費できる大学生にリア充が多いことを考えると、前者の事をリア充と呼ぶのではないだろうか。だとすれば、そんな物は本当の充実ではない。
逆に言うと、非リア充は、必ずしも充実していない人間の事を言うのでは無いと言える。充実した非リア充というのは、時間の価値や、時間を犠牲にするという事の重大さを気にかけることができるし、また、時間を有効に利用する生活モデルもできあがっているということだ。規則正しい生活や、約束した時間を守ることなども、それほど意識せずにできるようになるだろう。それは、大人になる過程で身につけておかなければならないことだから、非リア充になるという経験はしておいた方が良い気がする。
充実した非リア充というのは、自分を取り巻く価値感が目まぐるしく変わって行く中で、何をすれば自分は「充実」できるのか、どのように行動すれば、時間を犠牲にして得られる物が最大になるのか、そういう最適解を探し続けて、少しづつ大人になって行く人達の事を言うのかもしれない。