手のひらを返すように
一つの出来事があるとする。そこにはいくつかの世論がある。その世論というものが強くクローズアップされるような出来事もあれば、そうでもない事も多いが、とにかく、傍観者としての我々という集団の中でうっすらと形作られていく意思というものは、確かに存在する。それが、事実を受け止めた瞬間に、ココロによって生み出される感情であるのか、さまざまな視点で見て、熟考を重ねた結果であるのかは、個人個人で違うものではあるが。
実際に起こった出来事に対して、我々が受け取ることのできる事実というのは、ほんの一握りの、限られたものでしかないことがほとんどである。ベースが違うのだから、その出来事の当事者達と比べて、我々の中に湧き上がってくる考えや、その集合体であるところの世論とでは、一致するほうがあり得ないことのような気がする。
そしてその世論は、我々に対して新しい情報が提示されたときに、書き変わるのが自然なことである。入力が変われば、出力は変わる。少し前の自分と、180度逆のことを言っていたとしても、それが新たな事実を受け止め、自分の考えを一度消し去り、再構築した結果であるならば、なにも恥じる必要はないし「手のひらを返すようだ」と揶揄される理由もないのである。
個人の意思や世論が、新たな事実とともに書き変わったことを、我々の思慮の浅さに起因するものだとして、物笑いの種にする浅はかな評論家たちは、非常に滑稽なものとして私の目に映る。変わることを怖れ、新たな事実をはね除け、凝り固まってしまった考えに飲まれているのは自分たちだということに気づかぬまま、雄弁に語る彼らの姿が。